WINE LIFE + NAOfuku

アラフォー主婦がWSET diplomaを取るまで!

Jancis Robinsonってどんなひと??(前編)

こんにちは!なおふくです。

みなさんはジャンシス・ロビンソンという人を知っていますか?
ワインを勉強している方なら知らない方はいないのではないでしょうか。
70代になった今なお現役で、最も影響力のある女性ワインジャーナリスト、そしてマスターオブワイン、またの名をワインの女王とも呼ばれるジャンシス・ロビンソン。
ワイン関連書籍を多数出版しており、彼女の資料を活用している方もいらっしゃると思います。
しかし、彼女がどんな人生を歩んできたか、また、その人となりについては意外と知らない方が多いのではないでしょうか?
今回はワイン界の重鎮ジャンシス・ロビンソンについて詳しくご紹介したいと思います!

Jancis Robinson

じゃーん!こちらの淑女がジャンシス・ロビンソン女史でございます。
ザっと経歴をご紹介します。

ジャンシス・ロビンソン

  • 1950年イギリス、カンブリア生まれ。
  • オックスフォード大学卒。
  • ワイン&スピリッツ誌の記者を経て、イギリスでワインに関する世界初のテレビシリーズで案内役を務めるほか、フィナンシャルタイムズ紙のワイン記者など、ワインを広げる活動を精力的に行う。
  • 1984年、女性ジャーナリストとして初めて、またワイン製造業や販売業以外で初めてマスター・オブ・ワイン(MW)の称号を与えられる。(女性ジャーナリストとして初であって、業界内からの女性MWはジャンシス以前にいたため、女性初ではない。)
  • 2003年、エリザベス2世から大英帝国勲章(OBE)を授けられ、英国王室のワインセラーのアドバイザーに就任。
  • 2010年、フランス農林水産大臣から農業功労勲章の役員に任命。
  • 2012年、Wine & Spirit Education Trust(WSET)の名誉学長に就任
  • ワイン関連著書多数、なかでも愛飲家必携の名著「Oxford Companion to Wine」、「The World Atlas of Wine(第5版以降、ヒュージョンソンと共著者)」の著者としてワイン界における存在は偉大!

とまぁ、これだけでも、ものすご~いお方だということがお分かりいただけたと思います!
…ってか、オックスフォード大学卒って、世界大学ランキングでずっと1位の大学ですよね!?
ジャン、天才じゃん!

では、もっと詳しくジャンシス・ロビンソンについて掘り下げますよー!

ジャンシス・ロビンソンの生い立ち

2001年に出版された自伝「ジャンシス・ロビンソンのわたしのワイン人生」から、彼女の生い立ちと、どのようにしてワイン界でキャリアを築いたのかみていきます。(この本を読むと彼女も、やはり皮肉が大好きなイギリス人だっていうことがわかります…笑)
この本、357ページの大作…(汗) ※訳者あとがき、索引、含まず
なので、前編と後編の2回に分けてお届けしたいと思います!

「ジャンシス・ロビンソンのわたしののワイン人生」日本では絶版なのかな?Amazonの検索で見つからず…。図書館から借りてきました

家系

母方の曽祖父はフランスで樽工場を営んでいた。当時は樽製造業が儲かる時代ではなく物置小屋同然のその工場は、順調な経営ではなかったようだ。ジャンシスが生まれた頃には曽祖父の樽工場は廃業していたが、1950年以降イギリスの一般家庭でもワインが飲まれるようになるとワイン関連ビジネスの相関図も変わり、「樽製造業はワイン関連ビジネスの中でも旨味に富む仕事。もしまだ家業が続いていたらワインへのかかわり方が変わっていたかもしれない。」と語っている。
(曽おじいさんが、樽製造業をしていたなんて、やはりワインに通ずるDNAがあったんですね~!)

摂食障害の10代

1950年4月22日イギリス、カンブリアに生まれる
1967年、ツイッギ―に憧れた17歳のジャンシスは、過度な体重制限を自らに課し5週間で25ポンド(約11.35㎏)の体重を落とし、拒食症に。重症化する前に克服するが、良くも悪くも食品への執着が生まれるきっかけとなった。
(骸骨美人と信じていたそう。。重症化する前に抜け出せて良かった!)

オックスフォード大学で運命のワインと出会う(1968年~)

オックスフォード大学の学生寮で一年先輩のアリソンと出会う。ワイン愛飲家の医師を父に持つアリソンは幼いころからワインを(すする程度に)味わい、その特徴と産地についてノートをとるよう教育されていた。ジャンシスはアリソンから本格的なワインの味わい方を教わる。アリソンを通じて大学内のワインソサエティに誘われるが「気後れして自信がない」と入会を断った。

また、当時ジャンシスは裕福な家庭に育ったボーイフレンドと交際しており、彼のおかげで『シャンボール・ミュジニー・レ・ザムルーズ1959年』と出会いワインに開眼。さらに、彼によって外食三昧を楽しめたおかげで学友誌のレストラン情報担当のライターを務めた。
(人に恵まれていますよね。アリソンの教えもあって、初めて飲んだレ・ザムルーズ(その名も恋人たち❤)を堪能できたことがワイン人生の始まりだったんですね。)

旅行代理店に就職(1972年~)

卒業後、旅行代理店のトムソン・ホリデイズ社に就職しツアーガイドとなる。仕事を通してお酒と旅行、各国の酒税、そしてプレスとの関わりなどについて学ぶ(のちに自身がプレス側になりプレスツアーに参加するようになると、この経験からいろいろなことを考えさせられたという)。3年務めたのちに退社。

退社後は、学生時代からのボーイフレンドの実家の援助を得て、プロヴァンスに1年間語学留学。そこでロゼワインに出会い、料理とワインのペアリングを日常で楽しむことを覚える。この生活を経てグルメライターを志す。
(このレ・ザムルーズ彼氏の存在デカい!ちなみに語学留学というもののまじめな学生ではなかったようです(笑)うらやま~)

ワイン&スピリッツ誌のライターに(1975年~1980年)

1975年12月ワイン&スピリッツ誌入社。一年目はウイスキーウォッカなどワイン以外の酒を担当するが、自主的にWSETでワインの勉強を始める。
翌年からはワイン担当として多くのプレスツアーに参加する。驚異的な旅をこなした、と本人談。
(まぁ、取材と称したそれはそれは豪華な接待ツアーの日々だったようですよ~。あっという間にぷくぷくほっぺに変貌していたそうです。)
ワイン&スピリッツ誌に籍を置く傍ら、ワイン・タイムズ誌、ドリンカーズ・ダイジェスト誌(レ・ザムルーズ彼氏とともに立ち上げから参加)の編集に携わり多忙な日々を送る。ワイン道をひた走る中でWSET diplomaを主席で修了
この頃から、ワインライターとしてその地位を固めつつあった。

精力的にキャリアを積み上げ、評判となった彼女にワイン入門者向けの本『ザ・ワイン・ブック』の執筆依頼が舞い込む。彼女にとって初の書籍出版だったが多忙ゆえ喜びより次号の記事のネタに追われ感動はなかったと語っている。

また、この頃、イギリスはECに加盟。ECの貿易ルールが適用され、ワインにおいても厳格な原産地呼称制が適用されるなど転換期を迎えた。
(この時期については、テイスティングについてや、ワインライター界の男女格差、名だたるシャトー当主との絢爛豪華なランチ会、EC域内で原産地呼称制が統制される前のワイン流通についてなど、興味深い話が盛りだくさんです!)

多忙を極めるなかでのロマンス(1980年)

1980年、ワイン&スピリッツ誌退社。
人気誌へと成長したドリンカーズ・ダイジェストが大手出版社に買収され、親会社が手掛ける『ウィッチ・ワイン・ガイド』の編集長となる。また、サンデー・タイムズ誌にワインコラムを寄稿するなど活躍の幅を広げる。

幹事を務めたカリフォルニア・ワイン・テイスティング大会(1976年パリテイスティング以降、カリフォルニアワインブームが沸き起こっていた)でワイン・インポーターのニック・ランダ―と出会い、交際が始まる。世界中を飛び回る彼女との交際は、お互いのスケジュールを縫って逢瀬を重ねていた。
(ってか、あのレ・ザムルーズ彼氏はどした?多忙ゆえ終わってしまったんですかね(泣)。別れの理由や時期についての記述はなかったです。。)

1981年6月ロンドンのソーホーにニックがカリフォルニアワインのレストラン「エスカルゴ」をオープン。ジャンシスは、この店のワインアドバイザーとしてワインリストの作成に携わる。彼女は、店のワイン数を少なく絞りスタイル別に表記したほか、各ワインに一言説明を付け加えた。このようなメニュー表は当時画期的でたちまち評判となった。客の中にはミック・ジャガーやダイアナ妃の姿もあった。
(オープン初日から大盛況で、お客の中にはモンダヴィもいたそうです!しかしワインリストにモンダヴィのワインは入っておらず…。気まずい空気が流れたことは想像に易いですね(汗)。一年後のワインリストのリニューアルの際にはもちろんモンダヴィを加えたそうですよ。)

※現在もソーホーでフレンチの名店として存在するエスカルゴ。店のHPによると1986年から続く歴史あるレストランをニックが引き継いだということらしい。ニックの時代に名声を高め、現在は違うオーナーの手に渡っているがロンドンを代表するフレンチレストランとして存在している。
www.lescargot.co.uk

結婚、出産…。さらに飛躍へ(1981年~)

1981年10月かねてより交際していたレストラン経営者のニック・ランダ―と結婚。結婚式はお互い多忙だったため、スケジュールの隙を見てニックの店「エスカルゴ」に友人や親戚を招きアットホームに行われた。

時同じくして、3社のイギリスのメディアからテレビ進出を打診される。BBCからも誘いを受けるが局側と方針が合わず、最終的に民間のチャンネル4の依頼を受けた。この時彼女は妊娠していたが、番組は、各国のブドウ畑をジャンシスがレポートするという形式で契約され、産後2か月後にはボルドーへのロケがスケジュールされた。

1982年7月10日、長女ジュリアを出産。出産後は子育てに集中したいと考えていたジャンシスだったが、産後2日目にはサンデー・タイムズ誌の仕事にとりかかっている。
(活を入れるため、ジントニックの世話になったという記述も…。あちゃ~(汗))

また、9月末には予定されていたボルドーで収穫のロケが決行。その後、寒さ厳しいシャンパーニュ、カリフォルニアなど、生後3か月~5か月の間の多くを(夫ニックは乳母役として)ロケに同伴させた。
(めちゃくちゃハードスケジュール(泣)。私も母として経験ありますが、この時期は、もう、ほんっとに大変なんです!ロケとかありえない~。ジャンシスは娘にはかわいそうなことをしたと言っているし、初めての育児の重圧、フリーランスという社会保障のない立場、などについても言及しています。それにしても、授乳中だったとの記述があるのですが、ワインの試飲はどうしていたのでしょう…??)

テレビの冠番組開始(1983年~)

1983年8月、ワイン番組『ザ・ワイン・プログラム』がスタート(全6回シリーズ、各回30分、ゴールデンタイムに放送)。番組は各界の評論家から好評を得たが、ジャンシスがかけていた赤い大きなフレームのトンボ眼鏡はとりわけ目を引き、彼女のトレードマークとなった。
(知り合いのデザイナーからアドバイスをうけ、素直にかけていたのだそうですが、しばしばワインより「赤眼鏡の人!」と言われ恥ずかしかったのだとか。お茶目ですね!)
また、番組は、翌年からオーストラリア、ニュージーランドスカンジナビア諸国、エストニアなどでも放映された。

前編のまとめ

いかがでしたか??長かったですね(笑)
ジャンシスの誕生から結婚、出産、テレビ進出まで、を見てきました。
社会人になってからは、ほぼ休みなく(プロヴァンスの遊学の一年は除いて)キャリアを積み重ねていってますよね!
ワインへの情熱と、仕事へのパワフルさが相まって怒涛のように仕事をこなしているのが印象的でした。
また、ボルドーの格付けシャトーがよく登場するのですが、彼女のテイスティングに対する考えや姿勢がうかがえる記述が多くあり、とても参考になりました!
この本を読むとJSAの試験を受けた方なら、61シャトー丸暗記した甲斐があったと思えそうですよ(笑)

さて後編は、マスターオブワインの試験や、出産、仕事などについて、その後のジャンシスに迫ります!
お楽しみに!